2010/02/05 (Fri) 塊ブログにて
ご連絡が遅れましたが、六度九分が所属する塊(カタマリ)のブログが開設されました。
「仕事が遅い」と複数名に叱咤されつつ私もようように記事をアップいたしましたので、ご高覧いただければ幸いです。
http://katamarikatamari.blog107.fc2.com/
「仕事が遅い」と複数名に叱咤されつつ私もようように記事をアップいたしましたので、ご高覧いただければ幸いです。
http://katamarikatamari.blog107.fc2.com/
2010/02/04 (Thu) ハンドメイドの功徳
一月の初旬にはルアーの製作を始めるつもりでバルサを注文したら、なかなか届かず、早くも2週間予定がずれ込んでいます。 目下2月末のリリースを見込んでマーマーのダブルフックモデルを仕込み中ですが、いまだ下地のコートすら出来ておりません。
いやーどうなることやら。
六度九分では未だに板材からボディを削り出すという地道な作り方をしています。
実は以前、ボディを外注に出そうとした事もあるのですが、いざ加工会社とやり取りをしてみると、なかなか自分が必要とするシェイプが安定して出ませんでした。
じゃあ手で削るか、というところに落ち着いたまま今日に至るというわけです。
ルアーを作るという行為は、職人の仕事は徹底的にルーティンであり、幾つも幾つも同じ作業を繰り返すので、ある意味では退屈だしクリエイティビティに欠けると思ってきました。 ブランクを外注に出そうとしたのも、新しいルアーを作る時間を捻出するために他なりません。
しかし5年続けて知ったのは、ある意味ではそれが間違っていたという事です。
なぜハンドメイドを続けるのかとしばしば聞かれますが、どこまでをハンドメイドと呼んで然るべきかは長らく私の疑問でした。
そもそも人の手を介さないモノ作りは極めて少ない。
たとえが古くて恐縮ですが、冷凍ギョーザの食中毒がニュースになった時、私が一番気になったのはパッケージに「手作り」と印刷してあった事です。
確かに人の手を通じて作られていることには間違いありません。
しかし、テレビに映し出された無機質な工場で作られるギョーザが「手作り」と謳われることに、どこか違和感を覚えました。
ハンドメイドという単語の発明が迫られた背景には、18世紀に起こった産業革命があるはずです。 この言葉を必要としたのは、恐らく当時の職人でしょう。
「ワシらが作ったモンと機械が作ったモンを一緒にすんな!ぷん!」と。
しかし時は流れ、ハンドメイドという言葉はずいぶんと消費され、くたびれ、手垢にまみれました。 私のような個人製作者と、マスプロダクトが謳う手作りとを区別する力はもうほとんど残っていません。
それゆえ、エビスジーンズの山根社長が言った「ハンドメイドはホームメイドや!」という発言には目から鱗でした。 この慧眼の手柄は「手と機械」という作業者の区別から、「家と工場」という規模の問題に意識をスライドさせた事です。
先のギョーザの件で私が覚えた違和感は、あまりに大規模であるがゆえに、実際にギョーザを作った誰かの手が感じられなかったことに由来します。 ハンドメイドという言葉に託されたのは、事実レベルで手作業を通じたかどうか以上に「人が作ったと感じられる暖かみ」を伝える事にあった訳です。
そういう意味で、暖かみと規模の問題を内包するホームメイドという言葉はなかなか正鵠を得ているように感じますが、何かがもう一つ足りないような気もします。 それが何かを探り当て、かつ新たな地平を展望する言葉の発見は、まだ先の長い労の多い仕事のように思われます。
ええと何の話でしたっけ。
今週、ン百個のルアーのアウトラインを出したり、ダボ用の穴を開けたり、ウェイトを詰めたりしながら考えたのはそういうことでした。
同じ作業を延々と繰り返す職人仕事の特徴。
それは、手が動き続けることで脳が微弱に刺激されつつも、思考を司る部位はヒマなので長時間に渡って粘り強くシンキングタイムが続くことです。
クリエイティブであるとは、単に新しいルアーを作り出すことではありません。
新しいルアーを作ろうとして頭を動かす時は、ルアーについてのアイディアは生まれるけれど、その他のことが入り込む隙間が無い。
つまり「ハンドメイドの起源とゆくえ」を考えるような「遊び」を作るのが、ハンドメイドだと申し上げているわけです。
私はそれが死活的に重要に思える。
ただただ手を動かし続ける時間は、思いもよらぬことを思いつくための時間です。
アイディアの萌芽をつかみ取る時間であり、クリエイティビティの源泉です。
手仕事の、ハンドメイドの功徳はそこにあるように思います。
いやーどうなることやら。
六度九分では未だに板材からボディを削り出すという地道な作り方をしています。
実は以前、ボディを外注に出そうとした事もあるのですが、いざ加工会社とやり取りをしてみると、なかなか自分が必要とするシェイプが安定して出ませんでした。
じゃあ手で削るか、というところに落ち着いたまま今日に至るというわけです。
ルアーを作るという行為は、職人の仕事は徹底的にルーティンであり、幾つも幾つも同じ作業を繰り返すので、ある意味では退屈だしクリエイティビティに欠けると思ってきました。 ブランクを外注に出そうとしたのも、新しいルアーを作る時間を捻出するために他なりません。
しかし5年続けて知ったのは、ある意味ではそれが間違っていたという事です。
なぜハンドメイドを続けるのかとしばしば聞かれますが、どこまでをハンドメイドと呼んで然るべきかは長らく私の疑問でした。
そもそも人の手を介さないモノ作りは極めて少ない。
たとえが古くて恐縮ですが、冷凍ギョーザの食中毒がニュースになった時、私が一番気になったのはパッケージに「手作り」と印刷してあった事です。
確かに人の手を通じて作られていることには間違いありません。
しかし、テレビに映し出された無機質な工場で作られるギョーザが「手作り」と謳われることに、どこか違和感を覚えました。
ハンドメイドという単語の発明が迫られた背景には、18世紀に起こった産業革命があるはずです。 この言葉を必要としたのは、恐らく当時の職人でしょう。
「ワシらが作ったモンと機械が作ったモンを一緒にすんな!ぷん!」と。
しかし時は流れ、ハンドメイドという言葉はずいぶんと消費され、くたびれ、手垢にまみれました。 私のような個人製作者と、マスプロダクトが謳う手作りとを区別する力はもうほとんど残っていません。
それゆえ、エビスジーンズの山根社長が言った「ハンドメイドはホームメイドや!」という発言には目から鱗でした。 この慧眼の手柄は「手と機械」という作業者の区別から、「家と工場」という規模の問題に意識をスライドさせた事です。
先のギョーザの件で私が覚えた違和感は、あまりに大規模であるがゆえに、実際にギョーザを作った誰かの手が感じられなかったことに由来します。 ハンドメイドという言葉に託されたのは、事実レベルで手作業を通じたかどうか以上に「人が作ったと感じられる暖かみ」を伝える事にあった訳です。
そういう意味で、暖かみと規模の問題を内包するホームメイドという言葉はなかなか正鵠を得ているように感じますが、何かがもう一つ足りないような気もします。 それが何かを探り当て、かつ新たな地平を展望する言葉の発見は、まだ先の長い労の多い仕事のように思われます。
ええと何の話でしたっけ。
今週、ン百個のルアーのアウトラインを出したり、ダボ用の穴を開けたり、ウェイトを詰めたりしながら考えたのはそういうことでした。
同じ作業を延々と繰り返す職人仕事の特徴。
それは、手が動き続けることで脳が微弱に刺激されつつも、思考を司る部位はヒマなので長時間に渡って粘り強くシンキングタイムが続くことです。
クリエイティブであるとは、単に新しいルアーを作り出すことではありません。
新しいルアーを作ろうとして頭を動かす時は、ルアーについてのアイディアは生まれるけれど、その他のことが入り込む隙間が無い。
つまり「ハンドメイドの起源とゆくえ」を考えるような「遊び」を作るのが、ハンドメイドだと申し上げているわけです。
私はそれが死活的に重要に思える。
ただただ手を動かし続ける時間は、思いもよらぬことを思いつくための時間です。
アイディアの萌芽をつかみ取る時間であり、クリエイティビティの源泉です。
手仕事の、ハンドメイドの功徳はそこにあるように思います。
2010/01/25 (Mon) 人の間をぴょんぴょんぴょん
山陽新聞朝刊に勝間和代の新刊の書評がありました。
私は彼女の「効率が10倍アップする新・知的生産術」と「断る力」という2冊を読んだことがあります。
効率が悪く、ノーと言えない私はこれだ!と思って勇んでページをめくりましたが、個人的にやる気が湧き上がる本ではありませんでした。
書評の中で、私がワイドショー的に気になったのは「香山リカ」が「勝間和代を目指さない」という文章を以前書いていて、今回の新刊はそのアンサーブックだという件です。
香山リカについては新聞紙面くらいでしか読んだ事がありませんが、「バリバリ頑張って頑張って頑張りぬく」勝間和代に対して、「ま、そこそこでいいじゃん」というスタンスの人のようです。書評ではそう読めました。
たぶん私は香山リカ寄りの人間ですが、ここではどちらが自分につきづきしいかは問題ではありません。
私には二人のやり取りがとても「健全」に見えたんです。
それは、ノンフィクションの現場では今日も民主主義が機能していると感じられたからかもしれません。
少し前からよく耳にするようになった2大政党制の在り方というのは、ある意味「香山リカVS勝間和代」的な事にあるように思います。
どうやったら人間が上手くいくかについての意見が対立する者同士が、互いに意見を言い、なぜそういう意見になるのかを互いに明らかにする。
互いの妥協点を具体的にして、現実の解決策を探る。
超政治素人の私は、そういう手続きを丁寧に踏むことがデモクラシーだと思っていますが、それがきちんと機能している現場を見ると何だか愛おしくさえあります。
それは、他人のことを尊重していると感じられるからだ思います。
鳩山さんが脱税したとか、麻生さんが漢字が読めないとか、小沢さんが虚偽記入したとかしないとか、裏献金問題で攻勢に転じるとか、そういうことを日本のトップが言い合っているのを見ると、とても他人のことを尊重しているようには思えません。
多くの他人にとって切実な問題、基地原発経済エトセトラがゴロゴロしている最中で、内輪の問題に時間を掛けないで欲しい。
マニフェストが少々ブレても良いし、漢字が読めなくても良いし、私腹を肥やしたって良いから、どうすれば対立する人間同士がうまく暮らしていけるのかを考えて欲しい。
彼らの射程があまりに近いように思えて、せつせつ切ない今日この頃です。
ええと、なんで私がこんなポリティカルな話をしているかというと、これは完全に太田光の影響です。
図書館で福岡伸一先生の本を借りようと思ってウロウロしていたら、たまたま「太田光」の名前が目に入り、お、と思って手に取ると装丁はかわいいし、前書きも愉快だったので借りてみたら、ほとんど内容は「戦争のこと」でした。
私はNHKでやっている爆問学問という番組を見ますが、太田さんは話が息詰まるほどシリアスになっても、むしろギリギリまで息が詰まった時にこそ、必ずボケます。
ゲストの先生を良い意味で愚弄した後に、話が二転三転とドライブする様が私にはたまりません。
ところが、今回初めて借りた「トリックスターから、空へ」という本ではずぅぅっとシリアスなまま本が進んでいくんです。
テレビにおけるキャラクターと、本における其れのギャップに揺さぶられて、柄にも無く政治について考えてしまったという訳です。
うぐ、やられた。
そういえば以前の爆問学問、20世紀少年の浦沢直樹がゲストだった放送で、
「俺は漫才ばっかりやってたら息苦しくなるから、文章も書くしラジオもバラエティーもやるけど、他の展開は考えないの?」
というようなことを太田光が言いました。
それを受けて浦沢直樹は、
「僕の得意技は漫画で、それに飽きていないのは言われてみれば凄いね」
と応えました。
意見もやり方も異なりますが、私はどちらの作品も大好きです。
私は彼女の「効率が10倍アップする新・知的生産術」と「断る力」という2冊を読んだことがあります。
効率が悪く、ノーと言えない私はこれだ!と思って勇んでページをめくりましたが、個人的にやる気が湧き上がる本ではありませんでした。
書評の中で、私がワイドショー的に気になったのは「香山リカ」が「勝間和代を目指さない」という文章を以前書いていて、今回の新刊はそのアンサーブックだという件です。
香山リカについては新聞紙面くらいでしか読んだ事がありませんが、「バリバリ頑張って頑張って頑張りぬく」勝間和代に対して、「ま、そこそこでいいじゃん」というスタンスの人のようです。書評ではそう読めました。
たぶん私は香山リカ寄りの人間ですが、ここではどちらが自分につきづきしいかは問題ではありません。
私には二人のやり取りがとても「健全」に見えたんです。
それは、ノンフィクションの現場では今日も民主主義が機能していると感じられたからかもしれません。
少し前からよく耳にするようになった2大政党制の在り方というのは、ある意味「香山リカVS勝間和代」的な事にあるように思います。
どうやったら人間が上手くいくかについての意見が対立する者同士が、互いに意見を言い、なぜそういう意見になるのかを互いに明らかにする。
互いの妥協点を具体的にして、現実の解決策を探る。
超政治素人の私は、そういう手続きを丁寧に踏むことがデモクラシーだと思っていますが、それがきちんと機能している現場を見ると何だか愛おしくさえあります。
それは、他人のことを尊重していると感じられるからだ思います。
鳩山さんが脱税したとか、麻生さんが漢字が読めないとか、小沢さんが虚偽記入したとかしないとか、裏献金問題で攻勢に転じるとか、そういうことを日本のトップが言い合っているのを見ると、とても他人のことを尊重しているようには思えません。
多くの他人にとって切実な問題、基地原発経済エトセトラがゴロゴロしている最中で、内輪の問題に時間を掛けないで欲しい。
マニフェストが少々ブレても良いし、漢字が読めなくても良いし、私腹を肥やしたって良いから、どうすれば対立する人間同士がうまく暮らしていけるのかを考えて欲しい。
彼らの射程があまりに近いように思えて、せつせつ切ない今日この頃です。
ええと、なんで私がこんなポリティカルな話をしているかというと、これは完全に太田光の影響です。
図書館で福岡伸一先生の本を借りようと思ってウロウロしていたら、たまたま「太田光」の名前が目に入り、お、と思って手に取ると装丁はかわいいし、前書きも愉快だったので借りてみたら、ほとんど内容は「戦争のこと」でした。
私はNHKでやっている爆問学問という番組を見ますが、太田さんは話が息詰まるほどシリアスになっても、むしろギリギリまで息が詰まった時にこそ、必ずボケます。
ゲストの先生を良い意味で愚弄した後に、話が二転三転とドライブする様が私にはたまりません。
ところが、今回初めて借りた「トリックスターから、空へ」という本ではずぅぅっとシリアスなまま本が進んでいくんです。
テレビにおけるキャラクターと、本における其れのギャップに揺さぶられて、柄にも無く政治について考えてしまったという訳です。
うぐ、やられた。
そういえば以前の爆問学問、20世紀少年の浦沢直樹がゲストだった放送で、
「俺は漫才ばっかりやってたら息苦しくなるから、文章も書くしラジオもバラエティーもやるけど、他の展開は考えないの?」
というようなことを太田光が言いました。
それを受けて浦沢直樹は、
「僕の得意技は漫画で、それに飽きていないのは言われてみれば凄いね」
と応えました。
意見もやり方も異なりますが、私はどちらの作品も大好きです。
2010/01/18 (Mon) 能弁家のショウタイム
先週12日の火曜日、初釣りに行き、早くも初バスを釣り上げました。

今冬はデンプシーテールがマイブームで、そればっかり投げています。
個人的にこの時期に投げるルアーの代表格といえば、スローフローティング或いはシンキングのバイブレーションかサスペンドシャッドでした。
それがデンプシーテールに取って代わったのは「レンジコントロールの容易さ」それに尽きます。
古い記憶をよくよく辿ってみると、バイブレーションやシャッドがバスを効果的に誘い出していたのは、護岸沿いやシャローフラットといった「水深が一定の場所」でした。
どちらのルアーも往々にして潜りたがるため、岸に近づけば近づくほど強くボトムを叩いてしまいます。
この「ボトムを強く叩いてしまう」のがやっかいで、ルアーは枯れた菱やトロロ藻を連れて来てしまう上、何よりゴリゴリと不自然な硬いアクションを産んでしまいます。
「水深が一定の場所」でバイブレーションやシャッドが釣れていたのは、ソフトにボトムタッチできる面積が広かったためじゃないかと、こう思うわけです。
しかし釣り場というのは岸に近づけば浅くなり、沖に出れば深くなるのが常です。
私の場合、凹凸のある場所ではフローティングのフラットサイドクランクを投入しますが、この手のルアーは飛距離が伸びず、潜行深度も知れているため、ソフトにボトムタッチできる距離を長く取るのはやっぱり難しい。
デンプシーテールを愛用するに至ったのは、「ボトムに付かず離れず」の状態をキープするのが今まで使っていたルアーと比べてとってもイージーだったから、です。
ブレードをはずし、ダブルフックに付け替え、糸鉛でウェイトセッティングを施す事で「フワァ〜」と水平に泳ぐ状態を長くキープできました。
12日の岡山は厚い雲が広がる曇天、微風、水温は6度。
お昼前の11時ごろに釣り場に到着し、釣り始めました。
まずはバイブレーションやサスペンドミノーを投げてみるものの、どうしてもズリズリと底をすってしまう。
釣れる感じがしないので、さっそくデンプシーテールにシフト。
護岸の切れ目、水深がもっとも深くなる場所をスライスするように、例の「フワァ〜」で探る。
泥が堆積した所から護岸に差し掛かかり、硬い底質がロッドに伝わってきたあたりでカン!という乾いたアタリがありました。
グングン、グングン、グングン
いつもは16lbの糸を使っているので、今日巻いている12lbでは少し不安を感じるものの、やり取りを長引かせたくはありません。
少し強引に、しかし慎重に寄せて、あと3メートル、2メートル、1メートル…
魚の下あごを掴んだところで、ドッと気が抜けました。
しばし腑抜けとなる。
ふぅ。
はぁ。
落ち着きを取り戻して魚を観察すると、リアフックが口の内側に、センターフックが外側に掛かっていました。 初冬に中層を釣っていた時は必ずフロントフックに掛かっていた事を考えると、やはり回り込んで捕食した訳ではないように思われ、、、、、
一匹釣っただけで、いったい私はいつまで喋り続けるんでしょうか。
釣れたか、釣れなかったか。
私は平素よりそんな事はたいした問題じゃないと思っておりますが、釣った人間だけがこの様な「ショウタイム」を手にする訳で、皆さまのご賢察の通り、私がそれを掴みとる機会はスズメの涙ほどであるわけで、今ここで話さずして誰がこのドラマを聞いてくれようと言うので、、、、、
誰か〜 この口を止めてくれ〜

今冬はデンプシーテールがマイブームで、そればっかり投げています。
個人的にこの時期に投げるルアーの代表格といえば、スローフローティング或いはシンキングのバイブレーションかサスペンドシャッドでした。
それがデンプシーテールに取って代わったのは「レンジコントロールの容易さ」それに尽きます。
古い記憶をよくよく辿ってみると、バイブレーションやシャッドがバスを効果的に誘い出していたのは、護岸沿いやシャローフラットといった「水深が一定の場所」でした。
どちらのルアーも往々にして潜りたがるため、岸に近づけば近づくほど強くボトムを叩いてしまいます。
この「ボトムを強く叩いてしまう」のがやっかいで、ルアーは枯れた菱やトロロ藻を連れて来てしまう上、何よりゴリゴリと不自然な硬いアクションを産んでしまいます。
「水深が一定の場所」でバイブレーションやシャッドが釣れていたのは、ソフトにボトムタッチできる面積が広かったためじゃないかと、こう思うわけです。
しかし釣り場というのは岸に近づけば浅くなり、沖に出れば深くなるのが常です。
私の場合、凹凸のある場所ではフローティングのフラットサイドクランクを投入しますが、この手のルアーは飛距離が伸びず、潜行深度も知れているため、ソフトにボトムタッチできる距離を長く取るのはやっぱり難しい。
デンプシーテールを愛用するに至ったのは、「ボトムに付かず離れず」の状態をキープするのが今まで使っていたルアーと比べてとってもイージーだったから、です。
ブレードをはずし、ダブルフックに付け替え、糸鉛でウェイトセッティングを施す事で「フワァ〜」と水平に泳ぐ状態を長くキープできました。
12日の岡山は厚い雲が広がる曇天、微風、水温は6度。
お昼前の11時ごろに釣り場に到着し、釣り始めました。
まずはバイブレーションやサスペンドミノーを投げてみるものの、どうしてもズリズリと底をすってしまう。
釣れる感じがしないので、さっそくデンプシーテールにシフト。
護岸の切れ目、水深がもっとも深くなる場所をスライスするように、例の「フワァ〜」で探る。
泥が堆積した所から護岸に差し掛かかり、硬い底質がロッドに伝わってきたあたりでカン!という乾いたアタリがありました。
グングン、グングン、グングン
いつもは16lbの糸を使っているので、今日巻いている12lbでは少し不安を感じるものの、やり取りを長引かせたくはありません。
少し強引に、しかし慎重に寄せて、あと3メートル、2メートル、1メートル…
魚の下あごを掴んだところで、ドッと気が抜けました。
しばし腑抜けとなる。
ふぅ。
はぁ。
落ち着きを取り戻して魚を観察すると、リアフックが口の内側に、センターフックが外側に掛かっていました。 初冬に中層を釣っていた時は必ずフロントフックに掛かっていた事を考えると、やはり回り込んで捕食した訳ではないように思われ、、、、、
一匹釣っただけで、いったい私はいつまで喋り続けるんでしょうか。
釣れたか、釣れなかったか。
私は平素よりそんな事はたいした問題じゃないと思っておりますが、釣った人間だけがこの様な「ショウタイム」を手にする訳で、皆さまのご賢察の通り、私がそれを掴みとる機会はスズメの涙ほどであるわけで、今ここで話さずして誰がこのドラマを聞いてくれようと言うので、、、、、
誰か〜 この口を止めてくれ〜
2010/01/15 (Fri) 出荷情報 / キングマーマー
プロショップオオツカ大宮店さんに、キングマーマーのWフックモデル全色を出荷いたしました。
今日か明日には到着の予定なので、お近くの方はぜひお立ち寄り下さい。
どうぞ本年もご贔屓に。
今日か明日には到着の予定なので、お近くの方はぜひお立ち寄り下さい。
どうぞ本年もご贔屓に。